中年夫婦の35日間オーストラリア旅行記

こぼれ話

 

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アンザック ANZAC

オーストラリアを歩いていると、あちこちで「アンザック」 "ANZAC" という言葉に出会う。
Anzac MemorialAnzac ParkAnzac Hill、そして Anzac Day などなど。

ANZAC (Australia and New Zealand Army Corps) 。それは第一次世界大戦時に結成されたオーストラリア・ニュージーランド連合軍のことを指す。アンザック軍団は大英帝国軍の一員としてヨーロッパの戦いに参加し、ある時は多大な犠牲を払い、ある時は勇敢な戦いで見事な戦果をあげた。
この参戦は、独立間もないオーストラリア連邦が初めて国際社会に登場するきっかけとなり、戦後オーストラリアは国際連盟への加盟を果たすこととなった。

◇第一次世界大戦の勃発とオーストラリアの参戦
1914年、ヨーロッパでは、ますます強さを増したドイツ帝国と英・仏・露同盟間の対立は一触即発の状況にあった。ドイツは8月1日対ロシア、3日対フランスに宣戦を布告し、これに対抗してイギリスも4日ドイツに対し宣戦を布告した。この宣戦布告は大英帝国全体を含むものだった。
オーストラリアの首相ジョセフ・クック Joseph Cook は、「祖国が戦うなら我々も」 "If the Old Country is at war, so are we" と宣言。オーストラリアは選挙運動の真っ最中だったが、野党党首アンドリュー・フィッシャー Andrew Fisher は大英帝国に「最後の一人、最後の1シリングまで」ドイツと戦うことを約束し、首相は「我々の義務は明らか。腰を固め、我々が英国人であることを思い出そう」と応じた。

カナダは3万人を送ると申し出、オーストラリアは2万人を約束した。ニュージーランドは既に兵員の訓練を始めていた。1個師団の歩兵部隊しか常備軍を持っていなかったオーストラリアは、志願兵による新しい軍隊、オーストラリア帝国軍 the Australian Imperial Force (the AIF) を結成することを決め、宣戦布告の数日後には募集を開始した。

当時ほとんどの人々は、開戦を歓喜をもって迎えた。戦争はクリスマスまでに終結するだろうと考え、男達は冒険と興奮に乗り遅れまいと兵員募集センターに殺到する。
募集資格に達していない若い人達も年令を偽って応募し、そのほとんどが受け入れられた。1ヶ月余りの間、主要都市では応募を奨励するための行進が行なわれた。【写真上】
彼らは「1日6シリングの旅行者」 "six bob a day tourists" と呼ばれた。何故なら、当時としては給料は高く、ほとんどがイギリスの陸海軍がドイツをやっつけて戦争はすぐに終わると考えていたのである。

◇軍団の結成
10月後半、集められた兵士達を乗せた船団は、スエズ運河経由でヨーロッパに向った。途中、ニュージーランド軍と合流してアンザック軍団を結成する。しかし、アンザック軍団は一旦エジプトに上陸、ピラミッドの近くに野営して厳しい訓練を受けることになった。
あまり知られていないが、1902年に締結された日英同盟に基づき、イギリス政府の要請を受けた日本の艦隊がアンザック軍団護送の護衛に当たった。アンザック軍の補充は休戦の日まで続けられ、日本艦隊も最後までオーストラリア・スエズ間の護衛に従事した。

◇ガリポリ上陸作戦
東部戦線でドイツと戦っていたロシアは、ロシアへの圧力を軽減するためトルコを叩くようイギリスとフランスに要請する。イギリスのキッチナー将軍 Kitchener Herbert は、ロシアへの補給路確保も兼ねてダーダネルス海峡への攻撃を提案、この結果、エジプトでの訓練を終えて英仏軍に合流したアンザック軍団は、ガリポリ半島での恐ろしい砲火の洗礼を浴びることになる。

イギリス軍の現地指揮官ハミルトン卿 Sir Ian Hamilton は、トルコ軍の兵力は僅か4万人であり、ガリポリの上陸作戦は容易に完了すると予測していた。
ハミルトンは全部隊を3分割し、イギリス本国部隊は最南端から北上、フランス軍は陽動作戦で対岸のアジア側に上陸しすぐ撤退、アンザック軍はやや北西の離れた地点に上陸し本体の到着を待つ、という機能をもたせた。

◇アンザック入江の悲劇
1915年4月25日未明、上陸作戦が開始された。アンザック軍は当初予定のガバテペに向かったが潮流に押されやや北の名前のない入り江に上陸した。ここはその後アンザック入江 Anzac cove と呼ばれるようになる。【写真左】
アンザック軍団は、いばらに覆われた岩だらけの高地を超えてほんの少し前進した。
しかしトルコ軍の遠方からの砲撃は徐々に照準が合い、海岸の上陸地点に命中しはじめ、後続の兵は被害を受けつつあった。高地にあがった兵も、時折飛来する狙撃兵の銃弾に身を隠すだけで、何をしたらよいか見当がつかなかった。
6、7月、アンザック入江では海岸から直立するアナファルタ丘陵の南部に連なるサリバイール・リッジの攻防が行われた。いずれも数百ヤードの取り合いに終始し、その戦力は死傷者と病人で消耗しつつあった。一方その間もトルコ軍は戦力の増強が可能だった。

8月6日、連合軍は再び攻勢に出た。アンザック入江ではニュージーランド部隊が好調に進み、遂にサリバイール・リッジ中最高峰の一つ、しゃくなげ高地に達した。そこから見るダーダネルス海峡の狭隘部は絶景でかつ360度の視界が利いた。しかし出発地点を見下ろすと、トルコ軍の反撃でオーストラリア兵の死体が折り重なっているのが見えた。頂上にいても増援が期待できず、僅か3時間で北方に撤退した。実はこれがイギリス軍の最大進出線で、再びダーダネルス海峡狭隘部を陸上から目視することはできなかった。

◇敗北と撤退
8月10日、トルコ軍の猛反撃が始まり、しゃくなげ高地周辺で孤立していたアンザック軍もさすがに持ちこたえることができなかった。戦闘は23日まで続いたがイギリス軍は結局2万人に及ぶ戦死傷者を出し海浜部に閉じ込められた。この他に2万2千人が赤痢・チフスに倒れ、エジプトのアレクサンドリアは負傷者と病人で埋まったという。
ガリポリ作戦の失敗は明らかとなった。オーストラリアの若いジャーナリスト、キース・マードック Keith Murdoch は、極秘裏にダーダネルスの損害の規模についてオーストラリアの首相に書き送った。それはイギリスの首相デビッド・ロイド・ジョージに伝えられ、ハミルトン卿は更迭された。

イギリス政府は遂に撤退を命じた。1915年12月20日、アンザックの空になった塹壕に攻撃を続けるトルコ軍に気づかれることなく、撤退は完了した。1916年1月6日、ガリポリへの最後の攻撃を実行したトルコ軍は、アンザック軍の全軍が一人の犠牲者も出さずに撤退してしまっていることに気がつく。その撤退は、皮肉にも連合国のガリポリにおける作戦の中で最も成功した作戦だった。

◇大きすぎた犠牲
イギリスはガリポリの戦いに46万8千の兵士を送りこみ、33512名の死者、7636名の行方不明者、78000名の負傷者を出した。うち、アンザック軍団は、ガリポリで8000人を失い、18000人以上が負傷した。
オーストラリアの当時の人口は約5百万人。第一次大戦に33万人が出兵し、59000人が戦死した。
人口百万人のニュージーランドは、兵士11万人のうち18000人が戦死し、55000人が負傷した。 このニュージーランドの死傷者率62%は、アングロ・サクソン世界からの参戦国の中で最も高い数字である。

アンザック軍団はその後、パレスチナとフランスの西部戦線に送られる。
1918年、西部戦線のフランス、ル・ハメル Le Hamel の戦いでは、大きな戦功をあげた。この時のアンザック軍団の指揮官が、100ドル札の裏に描かれているジョン・モナシュ卿 Sir John Monash である。

オーストラリアでは、ガリポリ半島に上陸を開始した4月25日をアンザック・デー Anzac day として祝日にしている。この日には、第一次世界大戦だけでなく、これまでのすべての戦争における戦死者の霊が弔われ、世界平和への祈りが捧げられる。

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