中年夫婦の35日間オーストラリア旅行記

こぼれ話

 

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前回の『アンザック』と今回の『ダーウィン空襲』を「こぼれ話」シリーズの中でご紹介することには、かなりの抵抗があった。これらは、「こぼれ話」などという軽いノリのページで取り扱うテーマでは決してない……。
ということは充分に承知しているつもりだが、ページの構成上こうなってしまった。
読者の皆様にはご容赦いただきたい。

ダーウィン空襲(1942年2月19日)

 なぜこんなに大編隊の飛行機がこちらに向かっているのか。敵なのか? 敵? どこの国だ。
 しかし、すぐに飛行機がどこの国から来たのか分かった。翼にあった赤い丸。「ジャップだ。やられるぞ」
 とにかく造りかけの防空壕に飛び込むしかなかった。その瞬間、間近に爆弾が落ちてきた。

1942年2月19日午前9時58分。オーストラリア北部の中核都市・ダーウィンを日本軍が爆撃した。港内にいた6隻の大型船が沈められ、市庁舎、病院などのほか民間の建物も爆撃され、甚大な被害を被った。この日の日本軍の空襲で、人口5000人のダーウィンの街で243人が死亡、350人の負傷者を出した。

当時の日本軍は、前年12月8日の真珠湾攻撃に合わせて一挙に南方にも戦線を展開、フィリピン、香港、ボルネオ、マレー半島などに上陸して米英蘭豪軍と戦闘を繰り返していた。
ダーウィン爆撃の目的は、オーストラリアからインドネシアへ向けての反攻基地をたたくことにあり、真珠湾攻撃から帰還した帝国海軍機動部隊と、当時日本の占領下にあったチモールやパプアニューギニア方面から発進した陸軍攻撃部隊がこの作戦に参加した。

約1ヶ月後に政府の指示で調査・作成されたレポートによって、当日の状況を少し詳しく見てみよう。



空襲で炎上するダーウィン最初の空襲は10時前に行なわれた。たくさんの高高度爆撃機が南東方向から侵入してきた。V字型の隊形をとった戦隊は、目撃者によって多少違うが、多分高度1万5千フィート以上の高度を飛んでいたと思う。一つの戦隊は27機の爆撃機で構成されていた。
最初の爆弾は港に落とされた。投下を終わった爆撃機は旋回して戻り、今度は街の上に爆弾を投下した。

高高度爆撃機の後に、戦闘機によって護衛された多数の急降下爆撃機が飛来し、港に停泊していた船舶を攻撃した。急降下爆撃機と戦闘機の数は明らかではないが、合わせて50機は超えていなかったと思う。
攻撃は、オーストラリア帝国空軍 RAAF や民間の飛行場にも加えられ、街から9マイルほど離れたべリマ Berrima にある病院にも機銃掃射が加えられた。
空襲警報が解除されたのは、10時40分だった。

※日本側のデータによれば、第1派の攻撃に参加したのは、重爆、急降下爆撃機、戦闘機合わせて188機だったとされている。

1、損害

水上では
港に加えられた攻撃では、港湾施設や船舶に大変大きな損害が生じた。
空襲が始まったとき、桟橋の内側にはネプチュナ Neptuna とバロッサ Barossa が停泊していた。ネプチュナは大量の爆発物を積んでいた。ネプチュナは敵の爆撃で火に包まれ、桟橋の反対側に泊っていたバロッサも同様だった。
敵機が去った後ネプチュナは大爆発を起こして桟橋の大部分を破壊し、バロッサもこの爆発で大きな被害を受けた。
ネプチュナのほか、ジーランディア Zealandia 、ミーグ Meigs 、マナロア Mounaloa 、ブリティッシュ・モータリスト British Motorist 、アメリカ海軍駆逐艦ピアリ Peary が沈没、バロッサほかポート・マール(米) Port Mar 、病院船メナンダ Manunda が破壊された。

地上では
行政官事務所が爆撃で全壊した。警察官の官舎が全壊し、併設されていた警察署、政府事務所も全壊した。郵便局、電報局、海外電報局、そして郵便局長の住宅が、直撃弾か爆発のために完全に失われた。市民病院も大きな被害を受けた。個人の住宅も2、3戸失われたとの報告もある。

第2波の空襲は11時55分に始まり、20分から25分間続いた。今度の爆撃は29機以上の高高度重爆撃機で行なわれ、目撃者によると200個以上の爆弾が投下された。これらの爆撃機には戦闘機の護衛はなかった。爆撃は空軍の基地と病院に大きな損害を与えたが、今回は街と港には被害がなかった。

飛行場では
2回の攻撃で格納庫と修理工場が破壊され、病院が損害を受けた。航空機の被害は次のとおりである。

空襲で破壊されたオーストラリア空軍機

2、人的被害

死者の数はまだ正確には報告できないが、約250名に上ると考えられる。今後の調査でもっと正確な数字が判明すると思われる。

3、爆撃の正確さ

日本軍の爆撃、特に急降下爆撃は、非常に正確だった。高高度爆撃は急降下爆撃ほどではなかったが、そこそこに正確であり、大きな損害をもたらした。
しかし、空軍関係者によれば、この正確さは日本軍の質の高さより、むしろオーストラリア軍の防御・反撃体制の欠如によるところが大きかったと述べている。
(以下省略)



この報告は、第1回目の空襲の混乱で現地オーストラリア軍機能が麻痺し、空襲の状況と正確な損害状況が把握できなかったため、政府の指示により行なわれた調査の結果を伝えるものである。
市民だけでなく、軍人までもが南の方へ避難・疎開をしてしまい、1ヶ月余り経った後でも空襲の実態が正確に掴めていない。その混乱ぶりをうかがい知ることができる。

ダーウィンには、この空襲以降、1943年11月12日まで計64回の空襲が日本軍によって行なわれた。
第2回以降は、警報体制、防空体制も整備され市民の疎開が本格化したこともあって、大きな人的被害は出ていないが、英国人が入植後百数十年を経て、オーストラリア本土を攻撃した国はただ一カ国、日本だけだったわけで、その後の日豪関係に大きな汚点を残すこととなった。



ダーウィン爆撃のほかにも、心に留めておきたいいくつかの出来事がある。

ブルーム Broome
1942年2月29日、日本軍の爆撃により、数機の戦闘機と8機の飛行艇が破壊され、ジャワ島から避難する民間人約70名が死亡。

シドニー Sydney
1942年5月31日、3隻の特殊潜航艇がシドニー・ハーバーに侵入し、軍に徴用されていたフェリーを魚雷で攻撃。21人が死亡。

ニューキャッスル Newcastle
1942年6月8日、日本軍潜水艦が20分間にわたり市内を砲撃。市内の建物や住宅に被害発生。オーストラリアは、 Fort Scratchley 砲台から反撃した。

タウンズビル Townsville
1942年6月25〜28日、ラバウルを基地とする日本軍飛行艇が、オーストラリア空軍基地を爆撃。

捕虜生活
1942年2月15日のシンガポール陥落などにより日本軍の捕虜となったオーストラリア兵士は、以後3年半にわたり収容所生活、ビルマ鉄道建設などでの重労働を強いられることとなった。
オーストラリア軍の太平洋戦争での戦死者17000人に対し、捕虜の死者は8000人に達するという。

パプアニューギニア地上戦
アフリカ戦線から投入されたオーストラリア第7軍が激戦の後日本軍を撃退。本大戦で唯一オーストラリア軍単独で戦った戦闘だった。



以上、大変長々と書いてしまった。
日本の教科書での歴史の取り扱いがいろいろと議論されているが、それは決して中国、朝鮮半島、東南アジアに限定されるものではない。
僅か60年前、日本とオーストラリアの間にも上記のような歴史的事実が存在したということを、忘れてはならないと思う次第である。