中年夫婦の35日間オーストラリア旅行記

こぼれ話

 

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オーストラリアは何故『豪州』なのか(3) ……日本で描かれたオーストラリア……

◆日本の世界地図

さて、以上のような世界地図の変遷の中で、日本での世界地図はどのような歴史を辿ったのだろうか。

1543年のポルトガル人の種子島漂着まで、日本人にとっての世界とは、日本、中国(唐)、天竺(インド)の三国に過ぎなかった。
江戸時代に入ると鎖国体制がしかれ、外国、特にヨーロッパの知識からは完全に隔離状態にあったはずであるが、唯一開かれた出島に出入りするオランダ人や中国から貪欲に知識をとり入れ、想像以上に世界の姿を理解していたようである。

◇マテオ・リッチ系世界地図
江戸時代はじめに日本に入ってきたのは、1602年マテオ・リッチ(Matteo Ricci 利瑪竇)によって北京で刊行された「坤輿万国全図」である。【写真:右】

マテオ・リッチは、フランシスコ・ザビエルに続いて中国への入国を果たしたイエズス会の宣教師だが、布教活動の一助として木版刷りのこの地図を出版した。彼がこの地図を作成するに当たっては、1570年のオルテリウス、1590年のメルカトル、1592年のプランシウスなどの地図を参考にしたといわれており、南半球にはあの南方大陸が大きく描かれている。

1630年代以降、マテオ・リッチの坤輿万国全図は日本にも輸入され、複写・模写を含め20枚以上が現存する。1.79m×4.14mもある大型の地図は、世界の真ん中に中国を配して漢字で地名や説明を表記したので、日本人にも受け入れやすかったものと思われる。
南半球の下部3分の1くらいは南極に続く巨大な大陸となっており、「墨瓦臘泥加(メガラニカ)・南方大州」と表示されている。現在のオーストラリアあたりには、「此南方地、人至者少。故未審其人物如何」との注記がある。

朱子学系の地図製作者は、その後100年以上にわたって、「坤輿万国全図」をもとにいくつかの地図を作成する。1652年の「万国総図」、1708年の「万国総界図」、1720年の「興地図」などだが、いずれも新たな世界知識が加えられたものではなく、色彩や形の美しさを競ったものになっていったようである。
1788年、長久保赤水によって刊行された「地球萬国山海興地全図説」でも、180年前に作られたマテオ・リッチの地図をほとんどそのまま採用している。

◇蘭学系世界地図
ヨーロッパが大航海時代に突入し数々の新発見がなされるようになると、新しい知識の取得は、長崎を訪れるオランダ人から学ぶ蘭学者達の独壇場となる。

1775年に林子平が長崎で写したといわれる「地球図」は、オーストラリアが南方大陸の半島のように描かれてはいるが、「新忽爾蘭埃亜」(ノルハホルランデア "New Holland" の意)の書き込みがある。
1792年の司馬江漢の「地球全図」は、オーストラリアは南極から切り離されているが、ニュージーランドと一体となった形で描かれていて、「ノルハホルランド、新ヲランタト云」と書かれている。
1796年、橋本宗吉の「新訳地球全図」では、オーストラリアの東半分は白く欠けており、前のページで挙げたヨハネス・ブラウの地図あたりを参考にしたことがうかがわれる。
1802年に刊行された石塚催高の「円球万国地球全図」でも、オーストラリアの形状については橋本宗吉のものと基本的には変わっていない。

このように、蘭学系の地図にしても、ヨーロッパで得られた新しい情報が反映されるまでには、相当のタイムラグがあったようである。

1810年に高橋景保による「新訂萬国全図」が刊行され、ようやく当時の最新情報をほとんど網羅した世界地図が日本に登場する。
景保の地図は、幕府の命によって1855年から幕末にかけて何度かの改訂版が出され、当時の公認された世界地図として広く使用された。