中年夫婦の35日間オーストラリア旅行記

こぼれ話

 

[TOP][Site Map]


オーストラリアを訪れる前からずっと気になっていたこと、そして未だにその答が見つかっていないことがある。
それは、「オーストラリアは何故『豪州』なのか?」という問題である。
帰ってきてからも、いろいろな文献をあさり、Web上でも調べてみたのだが……。

オーストラリアは何故『豪州』なのか(1) ……オーストラリア大陸発見の旅……

現在日本では、外国の国名・地名はカタカナで表わしているが、一昔前までは漢字で表記していた。
アメリカは「亜米利加」、イギリスは「英吉利」、フランスが「仏蘭西」、ドイツが「独逸」で、スペインは「西班牙」、イタリアは「伊太利(亜)」で、オランダは「和蘭(阿蘭陀)」であった。
ご覧のように、ほとんどが表音表記で、日本人が耳にしたそれぞれの国名の音にあった漢字を当てたものである。余談だが、これらはすべて私のパソコンのIMEの辞書にも入っている。

それではオーストラリアはとなると、これが「濠太剌利(亜)」と書かれる。
これでは「ゴータラリ(ア)」ではないか。
江戸時代の地図には「豪斯多里」という表現も見られるが、これも「ゴウスタリ」としか読めない。 「豪州」は結局、この「濠」あるいは「豪」からきていることは間違いないが、なぜ「オウ」じゃなくて「ゴウ」なんだ?
こんな疑問に思いを巡らすうち、いつの間にか世界地図の「世界」にすっかりはまり込んでしまった。

■世界地図上のオーストラリア

オーストラリアは世界地図の上でどう表わされていたのか。
ヨーロッパの地図でどのように描かれ、それが日本にどのように伝わったのか。ちょっと長くなるが、ヨーロッパと日本の世界地図の歴史をたどってみることにしよう。

◆オーストラリア大陸の発見と探査

◇「南方大陸」を探せ
2世紀のギリシャの地理学者プトレマイオス Claudius Ptolemy は、北半球にある陸地とほぼ同じだけの陸地が南半球にも存在するに違いないと考えた。いわゆる「未知の南方大陸」 "Terra Australis Incognito" である。
お気づきだと思うが、ここに "Australis" という言葉が登場する。ラテン語で「南の」という意味であり、後の "Australia" の語源となる単語である。

この「南方大陸説」は、航海技術が発達した16世紀になって、伝説の南方大陸を確かめるための探検航海の気運をかきたてることになる。
はじめて世界一周航海を果たしたポルトガル人マゼラン Ferdinand Magellan が1520年にマゼラン海峡を発見したときにも、彼はティエラ・デル・フェゴ島 Tierra del Fuego を南側の大陸の一部であると思い込み、南方大陸の存在の可能性を報告している。
「未知の南方大陸」が後に「メガラニカ」 "Magallanica" と呼ばれるようになったのは、マゼランにちなんでのことであった。

1606年にニューヘブリデス諸島 New Hebrides Islands (現在のバヌアツ Vanuatu )に到着したポルトガル人のデ・キロス Pedro Fernandez de Queiros は、その地が Terra Australis の一部であると信じて疑わず、"Australia del Espirita Santo" 「聖霊の南方大陸」と、興奮しながら命名したという。

Nova Hollandia
17世紀に入ると、ポルトガル、スペイン、オランダなどの船によってオーストラリアが望見される機会が増え、未知の陸地の存在が次第に知られるようになる。
現在のオーストラリア大陸に初めて上陸したヨーロッパ人は、1606年カーペンタリア湾 Gulf of Carpentaria に上陸したオランダのヤンツ Willem Janszoon (Jansz) だったといわれている。
バタビア Batavia に東インド会社の本拠地を据えていたオランダの船員達は、喜望峰を回って直接バタビアに向かうよりも、'roaring forties' と呼ばれる強い偏西風に乗ってまっすぐ東に進み、東経110度(オーストラリア大陸の西海岸の手前に該当する)を北上する方が、より速いコースであることを知っており、嵐や船の故障で漂着した船員達によって、大きな陸地の存在が本国にも報告されていた。
航海の安全を確保するためにオランダ東インド会社が行なった数度にわたる調査航海によって、オーストラリアの西半分の海岸線についてはかなりの探査が進み、この地域はノーバ・ホランディア(新オランダ) Nova Hollandia と呼ばれるようになった。

◇タスマンの航海
タスマンの航海1642年、オランダ人タスマン Abel Tasman が、インド洋を経て西側から現在のタスマニア Van Diemen's Land を発見する。(この時には、タスマニアが島であることはまだ確認されていないし、タスマニアが南方大陸の一部であるという認識もなかったようである。)彼はさらに東に向かってニュージーランドを発見し、北上してニューギニアの北側を西に向かいバタビアに至る。この航海によって、オーストラリアがプトレマイオスの描いた南方大陸の一部ではなく、完全に航海可能な海に囲まれていることが実質的に確かめられたことになる。(ただし、この航海ではニューギニアとオーストラリアを隔てるトーレス海峡の存在は確認されていない。)
オランダは百数十年にわたってオーストラリアに接触するが、この大陸には香辛料や金などの産品がないと判断し、その領有を宣言することはなかった。

◇キャプテン・クックの航海と入植
クックの第一次航海1768〜71年、キャプテン・ジェイムス・クック James Cook の第1次航海によって、オーストラリアの東海岸とニュージーランドの正確な形が測量され、この時、トーレス海峡の存在も確かめられる。これによって、オーストラリア大陸の輪郭はほぼ現在に近い形で認識されるようになった。
クックはオーストラリア大陸東岸部の領有を宣言し、15年後の1785年、英国政府はクックの領有宣言した地域を「ニュー・サウス・ウェールズ植民地」 "the Colony of New South Wales" と名付けて入植を決定する。
初代総督アーサー・フィリップ Arthur Phillip 率いる船団が約1350名の入植者を乗せてポート・ジャクソン Port Jackson (現在のシドニー)に上陸したのは、1788年1月26日のことであった。
しかし、この時点で英国が植民地としたのは大陸のほんの一部、東海岸だけであり、大陸全体の呼称については、依然として英語で New Holland としか呼んでいなかったようだ。

◇夢に消えた南方大陸
タスマンやクックの航海によって、オーストラリアはあの巨大な南方大陸の一部ではなく、完全に独立した(小さな)大陸であることが立証された。では、南方大陸発見への夢はその後どうなったのだろうか。1772〜1775年のクックの第2次航海は、まさに南方大陸を探す最後の探検であり、2世紀以上にわたったヨーロッパの船乗り達の冒険心に終止符を打つものだったと言うことができる。
クックはこの航海で、アフリカ南部や南太平洋南部で何度か南極圏を横切って南下し、あくまでも大陸の存在を確認しようと試みるが、そのたびに氷に阻まれてしまう。
1775年2月大西洋に戻った彼は、結果的に南極大陸を一周した最初の人となったのだが、大陸を自分の目で確認することも上陸することもできなかった。
「大陸の存在を否定することはできないが、それは考えられていたほど大きなものではなく、人が住めるところでもないだろう。これ以上探すほどの価値はない。」これが、彼の出した結論であった。

◇オーストラリアの名付け親 フリンダース
1795年、オーストラリアに向かったイギリスの探検家フリンダース・マシュー Flinders Matthew は、ニュー・サウス・ウェールズへ向かう途中、1798年にオーストラリア大陸とタスマニアを隔てる海峡を発見し、後にこれを Bass Strait と命名する。ちなみに、Bass は、2度目の航海でフリンダースに同行した船医の名前である。
2度目の航海では、1802年にシドニーを発って北へ向かい、トーレス海峡、ティモール Timor を経由して南下して、ルーウィン岬 Cape Leeuwin 、バス海峡を通ってシドニーに戻った。オーストラリア一周の航海をした初めての人となったのである。
イギリスに帰国したフリンダースは、1814年に「南方大陸航海記」 "A Voyage to Terra Australis" を著わす。
「一つの大陸であることがが確認された今、 New Holland New South Wales という二つの名前があるのはおかしい。何か新しい名前をつけるべきだ。」と考えていた彼は、この本の序文で、この大陸を Australia と名付けるよう提言している。

"Had I premitted myself any innovation upon the original term, it would have been to convert it into Australia as being more agreeable to the ear, and an assimilation of the other great portions of the earth."
もともと、フリンダースはこの本の名前を "A Voyage to Australia" としたかったのだが、彼のスポンサーであったジョセフ・バンクス卿 Sir Joseph Banks に受け入れられなかったという経緯があった。
彼は、この本が出版された1814年、40歳の若さで亡くなったが、彼の提言した Australia は、次第に一般に使われるようになり、1824年以降公文書等でも正式に Australia と表記されるようになった。

フリンダース自身はどの場所にも自分の名前を付けることはしなかったが、現在 Flinders という名前は "Australia" の産みの親として、他の誰よりも多くオーストラリア中に残されている。